選択

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屋島テニスクラブの中庭の芝生に一本のケヤキの木がある。
前々からことであるが、ケヤキの木が大きくなり陽が芝生に当たらなくなっている。
ケヤキの根も広がり水分や栄養分を吸い取ってしまう。
芝生の発育が悪くなり、所々茶色くなっている。

ケヤキを残すと芝生は枯れていく。芝生の発育をよくするためには、ケヤキを伐らなくてはならないかも。
とりあえず目土を入れて肥料をやり、水分を多くしてみることにした。
それでも今年の夏、復活しなければケヤキの伐採は仕方がない。

クレイコート前の桜が病気になり伐採、ポプラが強風で倒れたり、今回のケヤキ。
��6年という月日で木々のことでもいろんな選択が迫られる。
「どうしますか?」この言葉を拒絶したくなる。
手間と暇がかかるから、価値が生まれるので手間暇に対してが問題になっているのではなく、せっかくここまでしたことが一瞬で消え去るわけです。

ケヤキにしても、この大きさになるまでに36年もかかり、伐採はわずか数時間のこと。
伐採して、もとに戻すことはできないし、芝生の価値とケヤキの価値を天秤に乗せ芝生の方が価値が高いのかといことにも違和感が残る。

屋島テニスクラブに来て茶色く枯れそうな芝生より、青々とした芝生のほうが心地よいに違いない。
”なんの為に”と思うと、人間の勝手で伐採されてしまうわけだ。
屋島テニスクラブに限ったことではないけれど、木は育つし、環境も変化する。

なんでこうなるんだろうか?

コメント

  1. [得ることと、失うこと]
    何かを得るとき、何かを失ってるのは、必ずといっていいほど、表裏一体だと常々感じます。
    でも、得た喜びと同時に、失う哀しみや淋しさがあるから、また次の目標ができたり、優しい心がもてるのかな…とも思います。
    みんなに愛される芝生と、一生忘れないケヤキへの思い。
    どちらも…羨ましいです。

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